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第69回カンヌ国際映画祭で「パルム・ドール」を獲得したのは、日本での上映でも好評を博した、ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年/100分)であった。
イギリス映画界が誇る巨匠・ローチ監督が2度目の黄金の棕櫚を抱いた同じ年、「ある視点」部門では日本映画が審査員賞を受賞した。
深田晃司監督『淵に立つ』(2016年/119分)である。

浅野忠信の強烈な凄みを嫌というほど引き出し、名バイプレイヤーである筒井真理子、古舘寛治の知名度を一気に押し上げた『淵に立つ』から2年、今や世界が注目する俊英となった深田晃司監督が放つ新作は、なんと日本・フランス・インドネシアの合作映画だ。
タイトルは、『海を駆ける』。
5月26日(土)より、待望の全国ロードショーが始まる。

『海を駆ける』ストーリー

日本からNPO法人の仕事でインドネシアへ移り住んだ貴子(鶴田真由)は、インドネシア育ちの息子・タカシ(太賀)と共に、ジャーナリスト志望のイルマ(セカール・サリ)が監督する2004年のスマトラ島沖地震とインド洋津波についてのドキュメンタリー映像の取材を受けている。カメラを回しているのは、タカシが通う大学の同級生でイルマの幼馴染であるクリス(アディパティ・ドルケン)だ。
貴子とタカシ母子は取材後、日本から亡父の遺言を叶えるためにインドネシアへやってくるサチコ(阿部純子)を、空港へ迎えに行く予定だ。サチコはタカシの従姉妹で、久しぶりの再会となる。だが、急用が出来てしまい、貴子は行けないと言い出す。彼女のスマホに入った連絡によると、バンダ・アチェの海岸に謎の男(ディーン・フジオカ)が倒れていて、どうやら日本人かも知れないとのことなのだ――。

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深田監督の作品には……作品世界には、常に「家族という関係性の危うさ」めいたテーマが見え隠れする。
前述の『淵に立つ』は言わずもがなだが、軽快なコメディである『歓待』(2010年/96分)も、タイトルそのままに実はエッジの利いた青春映画『ほとりの朔子』(2013年/125分)も、キャスティングに度肝を抜かれた『さようなら』(2015年/112分)も、家族という人間関係に縋りたい登場人物の(そして、恐らくは我々観衆の)幻想を穏やかに嘲笑うようなところがある。
そしてそれは、今作『海を駆ける』でも健在だ。

会話の端にしか登場しない、貴子の夫。
厳格なムスリムで内戦の傷痍軍人の、イルマの父親。
様々なヒントの断片を手にしても、結局は父の遺志の本意には辿り着けないサチコ。
一見すると意味のない軽薄な会話劇に観えてしまうシナリオに生命を宿したのは、紛れもなくキャスト陣の熱演があってこそのことだろう。

鶴田真由は『ほとりの朔子』から2作目、太賀は『ほとりの朔子』『淵に立つ』から3作目の深田組となるが、この2人は親子にしか見えないのだ。
深田作品で共演を経験している鶴田と太賀だが、『ほとりの朔子』では親子の役どころではなく、劇中の絡みも少なかった。
貴子とタカシの会話、同じフレームに収まっている時の空気感、別々に出演する場面での距離感……恐らくは過去にも深田監督の脚本を読み込んでいるからこそ出せる佇まいなのであろう。
(余談だが、太賀の役名はずっと「たかし」なのだ。今後の出演作にも注目したい)

この2人に絡む、地元インドネシアの出演陣も素晴らしい。
殊に、主要キャストのアディパティ・ドルケン、セカール・サリは特筆ものだ。
インドネシア、アジア圏に留まらず、世界が彼らを注目しているのも頷ける。
友情と恋情との狭間で揺蕩たいながらも温かい印象を色濃く残すドルケンとサリの演技は、背後にインドネシアと日本との関係性までもが透けて見えるようだ。

そして、忘れてはいけないのが、阿部純子の存在感である。
物語のストレンジャーであり、狂言回しでもあるサチコというキャラクターは、私たち観客の投影そのものである。
もし阿部の好演がなかったら、このともすれば難解と評されるであろう作品世界に、私たちは踏み込めずに終わったかも知れないのだ。
サチコは英文学を専攻してる大学生という役どころで、阿部は留学経験を活かした素晴らしい英語も聴かせてくれる。

タカシ、サチコ、クリス、イルマ、そして貴子……彼らが生きる物語の舞台アチェ州は多宗教国家インドネシアでも敬虔なムスリムが多い地域で、震災・津波以前は中央政府からの独立を目指す内戦が激しかった州である。
インドネシア政府に資金援助している日本政府へ、複雑な思いを持つ市民もいることが、劇中でも言及されている。
また、太平洋戦争で前線となった島々には、未だに旧日本軍のトーチカも残っている。
親日国と言われるが、多くの宗教、イデオロギー、民族を抱えるインドネシアで暮すのは、日本に対して好ましい印象を持っている人々だけではないのだ。

だが、そんな政治色の強いメッセージは、会話の端々で顔は覗かせるものの、作品世界を構築する要素の一つ程度に抑制されている。
深田晃司監督は映画公開に先駆けた5/11、小説版『海を駆ける』を上梓しているので、映画版と比べてみるのも世界観の把握に大いに役立つであろう。
映像では見過ごされ、聞き漏らした事象も、文字化されると全く違った印象のはずだ。

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だがしかし、そんな様々なエッセンスを列挙しても尚、この人の演技を絶賛しない訳にいかない。
言わずと知れた“もう一人のストレンジャー”、ディーン・フジオカの存在である。

劇中、フジオカ演じる謎の男は、貴子によって「ラウ」の名を与えられる。
インドネシア語で、「海」という意味だ。
ラウは、その名の通り「超自然的な」奇跡を見せ、登場人物たちを翻弄する。
その様子は、立ち居振る舞いは、纏っている空気は、日本人の感覚で表すとすると「祟り神」そのものである。
和(な)ぎ、荒ぶり、奇跡を起こし、幸を齎す……所謂「一霊四魂」、直霊(なおひ)としての存在――それは、私たちにとって「海」のイメージそのままだ。

そして、唐突な登場から、衝撃のラストに至る……『海を駆ける』は、ラウに始まり、ラウに終わる物語である。
人とも、神とも、精霊とも違い、或いはその全てかも知れず、若しくはその全てを超越した存在かも知れない……そんな「ラウ」という途轍もない難役は、ディーン・フジオカでないと成立しなかった――それほどの嵌まり役なのだ。
NHK連続テレビ小説『あさが来た』で一気に人気を定着させたスターにしては寡作なフジオカであるが、決定版ともいえる代表作に出会った感がある。

貴方は、ラウを、衝撃のラストを、『海を駆ける』を、一体どう解釈するのか……どうか、映画館の大スクリーンで確かめてほしい。
『海を駆ける』5月26日(土)よりロードショー、尾張ではミッドランドスクエアシネマ、ミッドランドシネマ名古屋空港で公開される。

映画『海を駆ける』

出演:ディーン・フジオカ、太賀、阿部純子、アディパティ・ドルケン、セカール・サリ、鶴田真由

脚本・監督:深田晃司

配給:日活 東京テアトル

2018/日本・フランス・インドネシア/107分


©2018"The Man from the Sea"FILM PARTNERS

2018年5月26日(土)より ミッドランドスクエアシネマほか公開