【やっとかめ文化祭 2017】、【まちなか寺子屋】より『八雲の木彫り熊の世界』を聴講しました。
講師は、八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館の学芸員、大谷茂之(おおや しげゆき)さん。会場は、“感じる、考える人のための本屋”【ON READING】ギャラリー。
八雲町の名物は?
八雲町は、北海道渡島管内にある人口約17,000人の町。
所謂「平成の大合併」により2005年、山越郡八雲町と爾志郡熊石町が合併し、新設された二海(ふたみ)郡は八雲町のみが所属しています。
二海郡はその名の通り「2つの海」に面していて、太平洋(内浦湾)と日本海に接する市町村は、日本でも八雲町だけなのです。
酪農、漁業、林業と、第一次産業が盛んで、遊楽部(ゆうらっぷ)川には鮭が遡上し、オオワシ、オジロワシが多く飛来する自然豊かな町です。
実は、北海道の人ですらあまり知らなかったりするんですが、八雲町が発祥の北海道名物が、二つあります。
一つは、バター飴。先代が製法を伝えずに亡くなったため、平成16年で八雲のバター飴は途絶えたそうです……ショック!
そして、もう一つ……それが、木彫り熊です。
大正13年、「八雲農村美術工芸品評会」に出品された八雲町の民芸品が、北海道第一号の木彫り熊だそうです。
「民芸品」という言葉が出来たの自体が数年後という時代ですから、その年に採れた形の良いカボチャなど、全国の農村からは主旨を勘違いした出品が続出したとか。
ちなみに、稲沢から出品されたのは「切干大根」だったそうです。
熊彫ブランドへ
八雲の木彫り熊は、その後も多くの品評会で高い評価を獲得します。
そして、当時からすでに人気の催事であった「北海道物産展」で販売されるに至り、北海道の名物として地位を定着させます。
八雲の木彫り熊には、
・毛彫り
・面彫り
・擬人化
という3つの特徴があります。
八雲では地元産の木彫り熊を審査、合格した製品には焼印を入れて販売するという、品質保証をいち早く導入。
「熊彫(くまぼり)」と命名された八雲の木彫り熊は、土産物として、特産品として、ブランド力を持つことに成功したのです。
熊彫の特徴・毛彫り
八雲の木彫り熊の特徴として先ず挙げられるのが、独自の「毛彫り」です。
実にリアリスティックな造形は、実際に生きている熊をモデルにして作られたことが大きな要因とか。
八雲では、太平洋戦争当時まで番いのヒグマを檻の中で飼育し、熊彫の作者だけでなく町民からも親しまれたのだそう。
そして、もう一つ。
日本画家・十倉金之(とくら かねゆき)の筆致を作品に反映させたことも、熊彫に独自のアイデンティティを齎すことになったのだとか。
八雲町産の木彫り熊には、両前脚を結んだ肩甲骨の真ん中に、盛り上がりが見られます。これは実際のヒグマの特徴だそうで、熊彫が写実性に富む作品であることの表れです。
ですが、コブの頂点から菊の花のように毛が流れているのは実際のヒグマには無く、日本画から採り入れられた表現手法ではと言われているそうです。
熊彫の特徴的な毛彫り表現の極致、「菊型毛」です。
熊彫の特徴・面彫り
こうした写実的な作品が生み出される一方、作品を面で表現する「面彫り」の技法も確立されていきます。
熊彫作家の一人・柴崎重行は、イメージが定着するのを良しとせず、「柴崎彫り」と呼んでもらいたいと言ったとか。
柴崎氏は、材料の木を飽くまで塊として捉え、必要最低限しか削り取らない独自の面彫り作品を次々と発表していきます。
そして、「塊とは即ち珠を成す」との境地に辿り着いた柴崎作品は、やがて丸みを帯びるに至ったのだとか。
八雲と尾張、意外な関係
さて、読み進むうちに疑問が湧いた読者の方も多いと思います。
「何故【ゴチソー尾張】に、北海道の木彫り熊の話題を載せたのか?」
「そもそも、何故【やっとかめ文化祭】で、八雲町を採りあげたのか?」
……ご尤もな疑問です。
実は、八雲町と尾張、切っても切れない濃密な繋がりがあるのです。
明治11年、元尾張藩第14代藩主で、当時尾張徳川家第17代当主であった徳川慶勝(よしかつ)は、旧尾張藩士たちの為に明治政府と交渉し開拓地の払い下げを受けました。
維新により職を失った旧藩士……もと侍たちが移住し、開墾した土地、それこそが現在の八雲町なのです。
「八雲」という地名を定めたのも、この慶勝公だそうで。「最古の和歌」とも言われる須佐之男命(すさのおのみこと)の古歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」
に因んでの命名とか。
そして、徳川慶勝の2代後の尾張徳川家第19代当主、徳川義親(よしちか)も忘れてはいけません。
義親は、馬鈴薯(ジャガイモ)の研究に大きな功績を遺した「徳川生物学研究所」を設立し、「徳川美術館」(名古屋市東区徳川町)の生みの親となるなど文化人として広く知られていますが、改革、革新に重きを置いたリベラルな政治家としての一面も持ちました。
八雲の人々がヒグマの被害に悩まされていることを聞き大正7年から毎年熊狩りを実施した義親は、愛用のウインチェスター銃に『夜の調べ』(セレナーデ)の一節を刻む粋人でもありました。
彼は武を尊ぶ性格ではなかったようですが、八雲の人々は親しみを込めて「熊狩の殿様」と呼んだそうです。
アイヌ文化にも理解の深かった義親は、「熊送り」(イオマンテ)の儀式にも積極的に参加し、アイヌの伝統の継承にも一役買ったとか。
そんな熊狩の殿様は、大正10年にヨーロッパ旅行へ出かけます。一年という道すがら立ち寄ったスイスで、義親が何気なく手に取った土産物が、八雲の、北海道の運命を変えるものだったのです。
それは、素朴な木彫りの小物の数々で、木工品の中には熊をモチーフにした置き物もありました。
主に農業、畜産業を生業とする地元の人たちは、農閑期には「農民美術」(ペザントアート)として木を削って土産物を作り、生活の足しにしていたのです。
「これは、貧困に喘ぐ八雲の人々を助ける手立てになるかもしれない」と、義親は幾つかの民芸品を買い求めたのです。
帰国し、大正12年に八雲を赴れた義親は、農民たちに工芸品の作製を奨励します。なんと、「出来はどうあれ、作った物は全部買い上げる」と檄を飛ばしたとか。
明けて大正13年は、前述した「八雲農村美術工芸品評会」が開催された年ですから、この品評会は集まった農民美術の即売会を兼ねていたとも言えます。
「熊狩の殿様」は、「熊彫の父」だったのです。
熊彫の今
昭和3年には「八雲農民美術研究会」が発足し、中には熊彫を専業とする製作者も現れ、八雲の木彫り熊は隆盛期を迎えます。
しかし、それも束の間のこととなってしまったのです。
ヨーロッパが2度目の世界大戦に舵を切ると、日本も太平洋戦争に突入、熊彫は全く売れなくなってしまいます。
やがて、熊彫にとって無くてはならないものであった、ヒグマを飼うための檻すら戦争に供出させられてしまいました。飼われていたヒグマは、銃殺された模様です。
戦後になっても一度消えかけた熊彫の灯を点し直すことは容易ではなく、作家は2名に激減。
現在では八雲で木彫り熊を製作している作家は、僅かに1名。それも、一般販売は行っていないとか。
とは言え、木彫りの熊が北海道の土産物屋さんから消えた訳ではありません。
八雲とほぼ同時期に木彫り熊制製作を始め、戦後の観光ブームで中心的な役割を果たした、旭川。ポロト湖に観光者向けのチセ(小屋)を持つ、白老。アイヌコタンとして抜群の知名度を誇る、阿寒湖畔。その他、札幌、奈井江など。
昭和30年代からの北海道観光ブームで、各地で作られた木彫り熊が土産物として大量に売り買いされました。
ですが、それは大量生産による粗製乱造をも意味していました。
現在、熊彫の新作が土産物屋に並ぶことがなくなったのは寂しい限りですが、熊彫はその役割を土産物から美術品へとシフトしたとも言えましょう。
販売はしていないものの、八雲町「木彫り熊資料館」(八雲町郷土資料館 隣接)では作品を常設展示していますし、八雲町民向けの生涯学習講座として、実際に木彫り熊の製作を体験できる「木彫り熊講座」が開講してるそう。
今回講師を務めてくれた大谷茂之学芸員は、『集まれ!北海道の学芸員』にコラムを寄稿しています。
【まちなか寺子屋】講義同様の軽妙な語り口に触れられますので、是非チェックしてみてください。
また、会場となった【ON READING】ギャラリーでは、11/20(月)まで『熊彫 ~ 義親さんと木彫りの熊~』が開催されています。
八雲の「熊彫」を直接見る機会は滅多にないので、こちらも是非ご覧ください。
さて、今回の聴講では、「八雲熊士 初級」の認定証が頂けました。
このレポートで、認定が取り消しとならないよう、祈るばかりです――。
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