ロンドン【フライトフェスト映画祭(Arrow Video FrightFest)】にて初上映……
国際映画祭への正式招待、20以上……
現在アメリカ、イギリス、フランス、ポルトガル、ドイツなど世界中で配給中……
「新世代Jホラー」と世界のシネフィルから大絶賛された
『NEW RELIGION』
(ニューレリジョン)
は、本作で長編デビューしたKeishi Kondo監督をスターダムへと押し上げた。
インディーズ映画としては異例のことであるが、Kondo監督にはハリウッドから監督オファーが来ているというからラブコールたるや凄まじい。
2022年製作の『NEW RELIGION』は、2025年7月18日(金)シネマート新宿にて待ちに待った日本国内での「逆輸入」公開を果たした。
そして、9月13日(土)からシアターセブンで、10月3日(金)からミッドランドスクエアシネマで拡大上映となる。
名古屋を拠点に活躍するKeishi Kondo監督にとって、そして多くのスタッフ・キャスト陣にとって、ミッドランドスクエアシネマでの上映は謂わば凱旋公開だ。
Kondo監督は、本作は「世界に通用する映画を生み出す、もうひとつの映画産業を名古屋に創り出す」という自身の夢への「最初の小さな一歩」であると語る。

『NEW RELIGION』ストーリー3年前に不慮の事故で娘・あおいを亡くし、コールガールとして糊口をしのぐ雅(瀬戸かほ)。
夫と離婚しても悲劇の現場となったマンションに暮らし続け、彼氏(西園寺流星群)と同居している。
ある日、嬢仲間のアカリ(水田黒江)が謎の言葉を残し、通り魔殺傷事件を起こして失踪する。
その直後、雅は岡(岡諭史)という客がアカリから指名変えしてきたと送迎係の相沢(沼波大樹)から知らされる。
岡は風変わりだった……写真撮影を嗜むという彼は、雅に「背骨の写真を撮らせてほしい」とリクエストするのだった――。

物語の中心、深淵にあるのは、娘を不慮の事故で失った母親・雅の魂の行方である。
ジョナサン・フランクが「この映画の根底に拷問のような悲しみを与えた」と絶賛した主演・瀬戸かほの演技は、繊細で痛々しく、美しく愛おしい。
スプラッターのようなゴア描写に頼らずともボディ・ホラーとして成立し、かつ伝統的な怪談めいた精神に呼応するゾクゾク感が同居している。
『NEW RELIGION』の出現はまさしく「新世代Jホラー」の誕生と言えるが、瀬戸かほ抜きでは成し得なかったと断言できる。

儀式的な写真撮影のシーンは、重厚なサウンドスケープが不吉な音響・残響を生み出し、繊細かつ大胆な照明と極彩色の映像美が渾然一体となり、聴覚、視覚の自由を奪っていく。
雅ばかりではなく観る者の脳髄もまた、現実からの乖離を、そして社会の崩壊を感じ始める。
Abul Mogard(ベルギー)、Zeze Wakamatsu、松本昭彦、MIIMMらによる楽曲が、三品鐘のカメラが、長岡滋の照明が、多層的な深淵を演出する。
そして、岡諭史の初演技とは思えないほどの怪演に目を奪われる。

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」
ニイチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が『善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Böse)』で語ったとされる言葉だが、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)になぞらえて記憶している諸氏も多かろう。
ラブクラフトと言えば、アメリカ文学におちてポー(Edgar Allan Poe)と並び称される怪奇小説の大家であるが、私たちが生きる現代(いま)に与えた影響を鑑みれば双肩する存在が見つからない稀有なる創造主である。
怪奇、SF、ハイファンタジー(斯様なジャンル分けには疑問を呈する向きもあろうが)……HPL(敢えてこう呼ぶ)が私たちに齎した「遺産」は、実に計り知れない。
HPLが創造したとされる「コズミック・ホラー(cosmic horror=宇宙的恐怖)」は、突き詰めていけば「ミクロティック・ホラー(microtic horror=微視的恐怖)」に外ならない。
畏怖の対象が巨き過ぎるということは、恐怖を感じる自己が微さ過ぎるということに等しい。
こんな想像をしたことは無いだろうか……
私たちが無機物だと認識している宇宙とは実は途方も無く巨きな生命体で、私たち人類はその巨大生物の細胞一つの表面に寄生する病原体に過ぎないのではないか、と。
巨きすぎるモノを想像する時、私たちは逆説的に自身の微ささを痛感する。
そして、思いが及んでしまうのだ……
家族としての最低単位である母と子が直面する悲劇とは、人類という「種」の遺伝子レベルに刻まれた破局(catastrophe)そのものなのではないか、と。
人類が如何に巨大な社会を築こうと、絶望を抱えた個体は世界の終焉を望むのだ。
それが「種」を越え、「属」を越え、「科」を越え……気付いてしまう。
「蛾」の見る夢と、「我」の見る夢に、大した違いはないのだ、と。

今後、『NEW RELIGION』と地続きな作品を紡ぎ続けるのか……
それとも、美しい映像と不穏な音楽を突き詰め、更なる耽美的な世界に向かうのか……
はたまた、私たちが想像も付かない地平に映画を進化・深化されるのか……
新たなる才能・Keishi Kondo監督の映画人生は、まだ始まったばかりだ――。

10月3日(金)~ミッドランドスクエアシネマ
国際映画祭への正式招待、20以上……
現在アメリカ、イギリス、フランス、ポルトガル、ドイツなど世界中で配給中……
「新世代Jホラー」と世界のシネフィルから大絶賛された
『NEW RELIGION』
(ニューレリジョン)
は、本作で長編デビューしたKeishi Kondo監督をスターダムへと押し上げた。
インディーズ映画としては異例のことであるが、Kondo監督にはハリウッドから監督オファーが来ているというからラブコールたるや凄まじい。
2022年製作の『NEW RELIGION』は、2025年7月18日(金)シネマート新宿にて待ちに待った日本国内での「逆輸入」公開を果たした。
そして、9月13日(土)からシアターセブンで、10月3日(金)からミッドランドスクエアシネマで拡大上映となる。
名古屋を拠点に活躍するKeishi Kondo監督にとって、そして多くのスタッフ・キャスト陣にとって、ミッドランドスクエアシネマでの上映は謂わば凱旋公開だ。
Kondo監督は、本作は「世界に通用する映画を生み出す、もうひとつの映画産業を名古屋に創り出す」という自身の夢への「最初の小さな一歩」であると語る。

『NEW RELIGION』ストーリー3年前に不慮の事故で娘・あおいを亡くし、コールガールとして糊口をしのぐ雅(瀬戸かほ)。
夫と離婚しても悲劇の現場となったマンションに暮らし続け、彼氏(西園寺流星群)と同居している。
ある日、嬢仲間のアカリ(水田黒江)が謎の言葉を残し、通り魔殺傷事件を起こして失踪する。
その直後、雅は岡(岡諭史)という客がアカリから指名変えしてきたと送迎係の相沢(沼波大樹)から知らされる。
岡は風変わりだった……写真撮影を嗜むという彼は、雅に「背骨の写真を撮らせてほしい」とリクエストするのだった――。

物語の中心、深淵にあるのは、娘を不慮の事故で失った母親・雅の魂の行方である。
ジョナサン・フランクが「この映画の根底に拷問のような悲しみを与えた」と絶賛した主演・瀬戸かほの演技は、繊細で痛々しく、美しく愛おしい。
スプラッターのようなゴア描写に頼らずともボディ・ホラーとして成立し、かつ伝統的な怪談めいた精神に呼応するゾクゾク感が同居している。
『NEW RELIGION』の出現はまさしく「新世代Jホラー」の誕生と言えるが、瀬戸かほ抜きでは成し得なかったと断言できる。

儀式的な写真撮影のシーンは、重厚なサウンドスケープが不吉な音響・残響を生み出し、繊細かつ大胆な照明と極彩色の映像美が渾然一体となり、聴覚、視覚の自由を奪っていく。
雅ばかりではなく観る者の脳髄もまた、現実からの乖離を、そして社会の崩壊を感じ始める。
Abul Mogard(ベルギー)、Zeze Wakamatsu、松本昭彦、MIIMMらによる楽曲が、三品鐘のカメラが、長岡滋の照明が、多層的な深淵を演出する。
そして、岡諭史の初演技とは思えないほどの怪演に目を奪われる。

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」
ニイチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が『善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Böse)』で語ったとされる言葉だが、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)になぞらえて記憶している諸氏も多かろう。
ラブクラフトと言えば、アメリカ文学におちてポー(Edgar Allan Poe)と並び称される怪奇小説の大家であるが、私たちが生きる現代(いま)に与えた影響を鑑みれば双肩する存在が見つからない稀有なる創造主である。
怪奇、SF、ハイファンタジー(斯様なジャンル分けには疑問を呈する向きもあろうが)……HPL(敢えてこう呼ぶ)が私たちに齎した「遺産」は、実に計り知れない。
HPLが創造したとされる「コズミック・ホラー(cosmic horror=宇宙的恐怖)」は、突き詰めていけば「ミクロティック・ホラー(microtic horror=微視的恐怖)」に外ならない。
畏怖の対象が巨き過ぎるということは、恐怖を感じる自己が微さ過ぎるということに等しい。
こんな想像をしたことは無いだろうか……
私たちが無機物だと認識している宇宙とは実は途方も無く巨きな生命体で、私たち人類はその巨大生物の細胞一つの表面に寄生する病原体に過ぎないのではないか、と。
巨きすぎるモノを想像する時、私たちは逆説的に自身の微ささを痛感する。
そして、思いが及んでしまうのだ……
家族としての最低単位である母と子が直面する悲劇とは、人類という「種」の遺伝子レベルに刻まれた破局(catastrophe)そのものなのではないか、と。
人類が如何に巨大な社会を築こうと、絶望を抱えた個体は世界の終焉を望むのだ。
それが「種」を越え、「属」を越え、「科」を越え……気付いてしまう。
「蛾」の見る夢と、「我」の見る夢に、大した違いはないのだ、と。

今後、『NEW RELIGION』と地続きな作品を紡ぎ続けるのか……
それとも、美しい映像と不穏な音楽を突き詰め、更なる耽美的な世界に向かうのか……
はたまた、私たちが想像も付かない地平に映画を進化・深化されるのか……
新たなる才能・Keishi Kondo監督の映画人生は、まだ始まったばかりだ――。

映画『NEW RELIGION』
9月13日(土)~シアターセブン10月3日(金)~ミッドランドスクエアシネマ
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