「信頼できない語り手」という手法が、文学にはある。
小説、主にフィクションで、登場人物が語る内容の信憑性を低くすることによって、受け手(当然、読み手も含まれる)を惑わせるレトリックである。
叙述トリックの一つであり、私たち読者の多くは所謂「倒叙もの」などミステリーのジャンルで用いられる文法として認知する。
この用語を初めて紹介したアメリカの文芸評論家ウェイン・ブースの言葉を借りれば、一人称で語られる物語は多かれ少なかれ信頼感に問題を抱えているとも言える。
日系英国人作家カズオ・イシグロの小説には、「信頼できない語り手」が数多く登場する。
ネタバレは避けたいので詳述は差し控えるが、過去を美化することに捉われる者、夢想と現実の境界が曖昧な者、記憶が不明瞭なまま語る者など。
ただ、カズオ・イシグロの作品がミステリー小説かと問われれば、同意する者は少ないであろう。
カズオ・イシグロ作品は、ミステリーに留まらずSFやファンタジー、歴史的資料など様々なエッセンスが散りばめられた、純文学だ。
そして「信頼できない語り手」という文法は、なにも小説の専売特許という訳ではないことを、私たちは良く知っている。
美術では、肖像画や風景画は対象をありのままに写した絵とは限らないし、表現の多様性を語る上でダダイズムやシュールレアリスム、そして抽象(アブストラクト)作品は今日の現代アートの在り様に直結する潮流だ。
より物語との親和性の高い音楽では、オペラでは登場人物が「信頼できない語り手」であることを示す為の曲があるし、今日のポップスでは独特の世界観を持つ歌詞の楽曲は枚挙にいとまがない。
映画はその全ての要素が詰まった表現であるから、「信頼できない語り手」との相性は抜群だ。
こちらもネタバレは避けたいので超有名作品に留めるが、『時計じかけのオレンジ』然り、『ジョーカー』然り。

今回紹介する映画は、2025年9月5日(金)より全国ロードショー
『遠い山なみの光』
原作は、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作品で、1982年に王立文学協会賞を受賞した。
メガホンを取ったのは、『ある男』(22年)で日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む8冠に輝いた石川慶監督。
イシグロは『ある男』の大ファンだそうで、今作でエグゼクティブ・プロデューサーを務め、脚本に助言することもあったという。
そんな「待望の映画化」に、まさに相応しい豪華キャスト陣が集結した。
1950年代の日本で暮らす悦子を演じたのは、人気、実力ともに日本を代表する存在となった、広瀬すず。
本作でも遺憾なく発揮された演技力は言わずもがなだが、石川監督は広瀬が撮影現場で放っていた「ベテランのようなオーラ」を絶賛する。
1980年代のイギリスで暮らす悦子を演じたのは、個性と普遍性を同居させる稀有な才能、吉田羊。
なんと全編ブリティッシュ・アクセントの英語台詞という難役を見事に演じ切り、カズオ・イシグロも「Etsukoが現れた」と原作者として最大の賛辞を送っている。
そして、物語最大のキーマン……キーウーマン・佐知子を演じたのは、憑依系俳優の筆頭、二階堂ふみ。
二階堂と広瀬ふたりの場面はシーン数、時間尺ともに本作最大で、何より二人が起こす「化学反応」の凄まじさに瞬きを忘れる。
そして、三浦友和、松下洸平、渡辺大知、柴田理恵といった主人公たちを強力に支える共演陣も観逃せない。
オーディションでニキ役を射止めたカミラ・アイコの存在感も光る。
そんな時、都会で暮らしている次女のニキ(カミラ・アイコ)が帰郷してくる。
大学を中退し作家を目指すニキは、戦時中に原爆を経験した悦子の半生を作品のモチーフにしたいと切望していた。
母は、語り始める……30年前、長崎で暮らしていた若き日の悦子(広瀬すず)のことを。
そして、ミステリアスで知的な女性・佐知子(二階堂ふみ)と幼い娘との一夏の思い出を――。

戦後間もない長崎を舞台としていることで、従来の作品に見られる対比が通用しない点に注目したい。
すなわち、戦地で心身を破壊された者たちと、銃後を生き延びた者たち。
原爆の標的となった長崎では、戦後においても放射線被曝による死の影が人の心を深く覆っている。
1945年8月9日に長崎にいたという事実は、戦地の最前線にいたこと以上の重みを持つ。
だが、カズオ・イシグロを通して視たナガサキは、私たちに英国的観点、否、イシグロ的観点をもたらす。
『遠い山なみの光』での長崎は、死に絶えた街ではなく、若者たちが未来を築かんとする活気に溢れた街として描かれる。
悦子と佐知子……広瀬すずと二階堂ふみは、綽やかに、嫋やかに、強かに、1952年を生きる。

とはいえ、原爆という大量破壊兵器を、戦争という殺戮行為を、そんな非人道的な存在を是として物語が進む訳ではない。
戦争が終わったにも拘わらず、社会を覆い続ける不安感からなのか不穏な事件が次々と起こり、市民は怯えている。
原爆が投下され数年が経過しているにも拘わらず、放射線を浴びた者は命を落とし、いわれない差別に苦しみ続けている。
人々は、蔓延り続ける「絶望」から逃れるために、闇雲に「希望」を享受しているようにも映る。
そして、逃れられない死に直面する。

終戦80周年という節目の2025年に公開される本作は、先の見えない時代を生きる私たちへのメッセージが詰まった映画である。
遥か彼方、記憶の先に見える光は、真実なのか、それとも……?
その答えは、是非とも劇場で確かめてほしい──。
映画『遠い山なみの光』公式サイト
https://gaga.ne.jp/yamanami/
©2025 A Pale View of HIlls Film Partners
小説、主にフィクションで、登場人物が語る内容の信憑性を低くすることによって、受け手(当然、読み手も含まれる)を惑わせるレトリックである。
叙述トリックの一つであり、私たち読者の多くは所謂「倒叙もの」などミステリーのジャンルで用いられる文法として認知する。
この用語を初めて紹介したアメリカの文芸評論家ウェイン・ブースの言葉を借りれば、一人称で語られる物語は多かれ少なかれ信頼感に問題を抱えているとも言える。
日系英国人作家カズオ・イシグロの小説には、「信頼できない語り手」が数多く登場する。
ネタバレは避けたいので詳述は差し控えるが、過去を美化することに捉われる者、夢想と現実の境界が曖昧な者、記憶が不明瞭なまま語る者など。
ただ、カズオ・イシグロの作品がミステリー小説かと問われれば、同意する者は少ないであろう。
カズオ・イシグロ作品は、ミステリーに留まらずSFやファンタジー、歴史的資料など様々なエッセンスが散りばめられた、純文学だ。
そして「信頼できない語り手」という文法は、なにも小説の専売特許という訳ではないことを、私たちは良く知っている。
美術では、肖像画や風景画は対象をありのままに写した絵とは限らないし、表現の多様性を語る上でダダイズムやシュールレアリスム、そして抽象(アブストラクト)作品は今日の現代アートの在り様に直結する潮流だ。
より物語との親和性の高い音楽では、オペラでは登場人物が「信頼できない語り手」であることを示す為の曲があるし、今日のポップスでは独特の世界観を持つ歌詞の楽曲は枚挙にいとまがない。
映画はその全ての要素が詰まった表現であるから、「信頼できない語り手」との相性は抜群だ。
こちらもネタバレは避けたいので超有名作品に留めるが、『時計じかけのオレンジ』然り、『ジョーカー』然り。

今回紹介する映画は、2025年9月5日(金)より全国ロードショー
『遠い山なみの光』
原作は、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作品で、1982年に王立文学協会賞を受賞した。
メガホンを取ったのは、『ある男』(22年)で日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む8冠に輝いた石川慶監督。
イシグロは『ある男』の大ファンだそうで、今作でエグゼクティブ・プロデューサーを務め、脚本に助言することもあったという。
そんな「待望の映画化」に、まさに相応しい豪華キャスト陣が集結した。
1950年代の日本で暮らす悦子を演じたのは、人気、実力ともに日本を代表する存在となった、広瀬すず。
本作でも遺憾なく発揮された演技力は言わずもがなだが、石川監督は広瀬が撮影現場で放っていた「ベテランのようなオーラ」を絶賛する。
1980年代のイギリスで暮らす悦子を演じたのは、個性と普遍性を同居させる稀有な才能、吉田羊。
なんと全編ブリティッシュ・アクセントの英語台詞という難役を見事に演じ切り、カズオ・イシグロも「Etsukoが現れた」と原作者として最大の賛辞を送っている。
そして、物語最大のキーマン……キーウーマン・佐知子を演じたのは、憑依系俳優の筆頭、二階堂ふみ。
二階堂と広瀬ふたりの場面はシーン数、時間尺ともに本作最大で、何より二人が起こす「化学反応」の凄まじさに瞬きを忘れる。
そして、三浦友和、松下洸平、渡辺大知、柴田理恵といった主人公たちを強力に支える共演陣も観逃せない。
オーディションでニキ役を射止めたカミラ・アイコの存在感も光る。
映画『遠い山なみの光』ストーリー
1980年代、イギリス郊外に暮らす悦子(吉田羊)は、一人で住むには広すぎる一軒家を手放そうとしていた。そんな時、都会で暮らしている次女のニキ(カミラ・アイコ)が帰郷してくる。
大学を中退し作家を目指すニキは、戦時中に原爆を経験した悦子の半生を作品のモチーフにしたいと切望していた。
母は、語り始める……30年前、長崎で暮らしていた若き日の悦子(広瀬すず)のことを。
そして、ミステリアスで知的な女性・佐知子(二階堂ふみ)と幼い娘との一夏の思い出を――。

戦後間もない長崎を舞台としていることで、従来の作品に見られる対比が通用しない点に注目したい。
すなわち、戦地で心身を破壊された者たちと、銃後を生き延びた者たち。
原爆の標的となった長崎では、戦後においても放射線被曝による死の影が人の心を深く覆っている。
1945年8月9日に長崎にいたという事実は、戦地の最前線にいたこと以上の重みを持つ。
だが、カズオ・イシグロを通して視たナガサキは、私たちに英国的観点、否、イシグロ的観点をもたらす。
『遠い山なみの光』での長崎は、死に絶えた街ではなく、若者たちが未来を築かんとする活気に溢れた街として描かれる。
悦子と佐知子……広瀬すずと二階堂ふみは、綽やかに、嫋やかに、強かに、1952年を生きる。

とはいえ、原爆という大量破壊兵器を、戦争という殺戮行為を、そんな非人道的な存在を是として物語が進む訳ではない。
戦争が終わったにも拘わらず、社会を覆い続ける不安感からなのか不穏な事件が次々と起こり、市民は怯えている。
原爆が投下され数年が経過しているにも拘わらず、放射線を浴びた者は命を落とし、いわれない差別に苦しみ続けている。
人々は、蔓延り続ける「絶望」から逃れるために、闇雲に「希望」を享受しているようにも映る。
そして、逃れられない死に直面する。

終戦80周年という節目の2025年に公開される本作は、先の見えない時代を生きる私たちへのメッセージが詰まった映画である。
遥か彼方、記憶の先に見える光は、真実なのか、それとも……?
その答えは、是非とも劇場で確かめてほしい──。
映画『遠い山なみの光』公式サイト
https://gaga.ne.jp/yamanami/
©2025 A Pale View of HIlls Film Partners
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