やや仄暗く、青みの強い画面には、幼気な子供の姿が映し出される。
円らな瞳に、柔らかにカール掛かったブラウンの髪。どうやら、女の子のようだ。
彼女を「サマ」と呼ぶ女性の声は、撮影者であろうか。
だが、家族のプライベート映像めいた雰囲気は、突然の大音響と共に掻き消される。
破裂音……爆裂音に続いて、大きな物の崩壊を想起させるような、低音から高音へ移り変わる連続音が聴きとれる。
カメラの主は、不吉な音の正体を確かめるべく、部屋を飛び出す。
照明が消え果てた通路に目が慣れ、カメラが角を曲がってみると……
広がっていたのは、血だまりであった。
そこは、紛ごうことなく、戦場なのだ。
『娘は戦場で生まれた』作品解説
シリアの大学生・ワアドは、独裁を続けるアサド政権へのデモに参加、スマートフォンで撮影を始める。彼女は、ジャーナリスト志望なのだ。
大国やイスラム過激派など内外からの思惑による代理戦争の様相を呈するシリア国内は、激しい内戦が治まる気配もない。アサド政権による反政府組織への締め付けは激化する一方で、首都アレッポは瓦礫の山と化す。
ワアドが出会った医学生ハムザは、廃墟の中に仲間たちと病院を設立し、アサド政権や政府を支持する組織による空爆の被害者の治療にあたる。だが、医師も設備も薬剤も不足する病院では、死は隣り合わせの日々であった。
いつしかワアドは妻子あるハムザに惹かれ、お互い愛し合うようになった若い二人は、戦場にあって正式な夫婦となる。やがて二人にはは新しい生命が授かり、ワアドは娘を出産する。
死と殺戮の世界と化したシリアの首都アレッポで、ワアドは愛しい娘に自由と平和への祈りを込め、「サマ」と名付けるのだった――。
『娘は戦場で生まれた』は、2012年から2016年まで、内戦が続くシリアの真実を記録した驚愕のドキュメンタリー映画だ。
自由を求める若者たちが中心となり、市民のデモが活発に行われたアレッポは、独裁政権の攻撃により陥落した。その数年間、市民が晒された恐怖、殺戮、死の日常を記録したのは、ジャーナリスト志望の女学生のスマートフォンであった。
絶望の日々にカメラを向けるワアドは、それでも家族の、友人の、市民の日常を汲み取っていく……そこに、愛を乗せて。
『娘は戦場で生まれた』の語り部にして監督のワアド・アルカティーブ(WAAD AL-KATEAB)は、こんなメッセージを寄せている。
「この映画は私の物語であり、私と私の家族に起こったことを映していますが、私たちの経験は特別なものではない、ということを皆さんに理解してほしいと思っています。何十万人ものシリア人が同じような経験をし、今日も悲劇は続いています。これらの罪を犯した独裁者は今も権力を持ち続け、罪のない人々を殺し続けています。私たちの正義への闘いは、革命が始まったときと同じように今も続いているのです」
そもそも、撮影を独学で学び市民ジャーナリストとなった2011年当時、ワアド・アルカティーブ氏はアレッポ大学でマーケティングを専攻する学生だったそうだ。
6年もの間に撮り溜めた映像は、アサド政権による絶望的なアレッポ包囲戦の生々しい証拠映像に他ならず、2016年12月の避難で持ち出すことができた実に貴重なフッテージなのだ。
彼女は、自身の映像をドキュメンタリー映画にすることを、
「アレッポでの数年間と同じくらい大変」
だったと語っている。
映画化の実現において、共同監督であるエドワード・ワッツの存在を忘れる訳にはいかないであろう。
ワアド監督は、ワッツ監督について
「私が負うべき重荷を自分の肩に背負ってくれた」
と表現している。
共同監督を務めたエドワード・ワッツ(EDWARD WATTS)はエミー賞の受賞歴を持つ映画監督であり、劇映画、ドキュメンタリー映画を20作以上の劇映画、ドキュメンタリー映画を発表している。
ワッツ監督は、
「ワアドの物語を通して、世界はようやく実際に起こったことを認識し、私たちの犯した悲劇的な過ちの深さを理解し、このようなことを二度と起こさないという強い思いをもう一度持ってもらえたらと願っています」
と、語っている。
中世からの呪縛から解き放たれた現代、民衆は基本的人権を手中に収め、豊かで人間的な生活を謳歌している。
だが、それは飽くまでも極めて限定的な話。
貧困、因習、差別、禁忌……様々な外的要因に晒され、日々の生活もままならない人々もまた、世界中に溢れかえる。
殊、戦時下においては、人権など意味を成さない。
刀剣による斬り結びから、投石、弓矢、弾丸、そして、砲弾……
戦(いくさ)から戦争へ、近代戦から現代戦への移行は、人権どころか人命の軽薄化を加速させる歴史に他ならない。
空爆というリスクの極めて少ない(ドローンに至ってはノーリスクだ)戦術において、人命の軽視は更に拍車が掛かる。
だが、刮目しなければならない。
リスクゼロの空から落とす爆弾が、どんな惨禍を齎すのか。
如何なる殺戮を産み出すのか。
どれほどの憎悪を遺すのか。
ワアドの愛娘・サマは「空」という意味だという。
シリアの人々が乞いて已まない平和、自由の象徴、空から殺戮が降ちてくるのだ……何たるパラドクス!
ギリシア神話で「パンドラの甕」の物語をご存知だろうか。
主神ゼウスから人間に齎された、呪いである。
ゼウスに命じられて人間を創造したプロメテウスは、禁じられていた「神の火」を肩入れするようになった人間に与えてしまう。
これに激怒したゼウスは、プロメテウスを永遠の磔刑とし、更に人間に災いを与えるため最初の女性・パンドラを地上に降ろす。
禁じられていたが(もしくは、禁じられていたからこそ)、パンドラは好奇心に負け、持たされた甕を開けてしまう。
すると、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪など、ありとあらゆる災禍が地上に放たれた。
慌てて蓋を閉めた甕の底には、エルピス(ἐλπίς)が残ったという。
エルピスは、「希望」「予兆」と訳される。
あらゆる災厄が解き放たれた世界だが、人類には希望だけが残されたのだ。
パンドラの行為で一番質が悪いのは、最後に「希望」を残したことではあるまいか。
これにより人間は、どんな絶望下においてでも、希望を見出すようになったのだ。
暴力が、死が、憎悪が、殺戮が跋扈する世界で、絶望すべき世界で、そこに一陣の希望を見出す。
これは、美徳ではなく、悪徳なのではないのか?
人は、一度滅んでしまう方が良いのではないか?
それほどまで、心を揺るがされてしまう。
本年度アカデミー賞®(長編ドキュメンタリー部門)ノミネート、カンヌ国際映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞受賞は、伊達ではない。
実に、実に、様々な思索を思い起こさせてくれる、本当に観る価値のある映画だ。
シアター・イメージフォーラムなど、首都圏では本日2/29から公開の『娘は戦場で生まれた』。
東海地方では、名演小劇場(名古屋市東区東桜)で3月7日(土)から、進富座(三重県伊勢市曽祢)で4月11日(土)からのロードショーとなる。
考え方を、そして生き方を変えてしまう――
そんな作品に、時おり出会うことが出来るのだ……映画館では――。
映画『娘は戦場で生まれた』
配給:トランスフォーマー
© Channel 4 Television Corporation MMXIX
『娘は戦場で生まれた』公式サイト
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