観客が初めに心を奪われるもの、それは音楽だ。
静寂の中を、ゆっくりとオーケストラサウンドが響きわたり始める。
世にも甘美な調べ、曲目はヨハン・シュトラウス2世「美しき青きドナウ」。
真っ暗な画面に目が慣れてくると、そこは大きな棚が迷路のように立ち並ぶ、大型の倉庫だ。
左から右へ、何か大きな物が狭い通路を滑らかに移動する。
漆黒の闇の中に薄ら白く浮かび上がったその物体は、よく見ると白というよりも黄色だ。
電動モーターの発する控えめな連続音が、心地好く劇伴のワルツに溶け込む。
オレンジ色のパトランプが、棚に、床に、幻想的な光と陰を映し出す。
フォークリフトは、倉庫の隘路を縦横無尽に走り回る。
時に交差し、時に並走し、すれ違うかと思えば、左右に行き別れる。
その様は、まるでスケートのようだ。
「美しき青きドナウ」といえば、ロシア女子初のオリンピック金メダルをもたらしたアデリーナ・ソトニコワが、ペアスケーティング ロシア代表 川口悠子が、共にSP(ショートプログラム)で使用した楽曲だ。
こうして幕を開ける『希望の灯り』(2018年/125分)は、4月5日(金)より全国ロードショーが始まった。
ドイツの俊英トーマス・ステューバー監督が、クレメンス・マイヤーの短編小説『In den Gängen(通路にて)』を原作に撮りあげたヒューマンドラマ映画である。
この映画は、観客を裏切る。
しかも、二度もだ。
『希望の灯り』ストーリー
無口な青年クリスティアン(フランツ・ロゴフスキ)は、在庫管理として夜のスーパーマーケットで働き始める。
手首や首筋までタトゥーが覆うクリスティアンは、どうやら過去に問題を抱えているようだが、教育係である飲料担当のブルーノ(ペーター・クルト)は厳しくも温かく接する。
チェスの“名人”ルディ(アンドレアス・レオポルト)、電動ハンドリフトを独占するクラウス(ミヒャエル・シュペヒト)、目利きのイリーナ(ラモナ・クンツェ=リブノウ)など、在庫倉庫と化した夜のスーパーマーケットには、一曲も二曲もある同僚ばかりだ。
ある夜クリスティアンは、通路でフォークリフトに乗る菓子担当のマリオン(ザンドラ・ヒュラー)と出会う。
謎めいた年上の彼女に夢中になるクリスティアンだが、マリオンには恋に踏み出せない理由があった――。
今作のキャスト陣は、全員が感情を抑えた素晴らしい演技を見せる。
最近では「棒演技」なる言葉が定着し、誤用が広がっているが……本来、「棒気味の演技」とは「感情表現を抑えた演技」という意味だ。
『希望の灯り』では素晴らしい棒演技が観られるので、是非とも本来の意味を知っていただきたい。
クリスティアン役のフランク・ロゴフスキは、袖口とシャツの一番上のボタンを留める、職務に就く時のルーティンが素晴らしい。
そして、酒場で荒れるシーンも、マリオンとコーヒーを飲むシーンも、等しく素晴らしい。
そのどれもが極力感情表現を排した演技に徹しているが、固くした表情から溢れ漏れてくる心情が、しっかりと観る者に届くのだ。
ヒロインであるマリオン役のザンドラ・ヒュラーは、主演作『ありがとう、トニ・エルドマン』(監督:マーレン・アーデ/2016年)で見せた感情の起伏溢れる演技を封印し、秘密めいた魅力溢れる女性を完璧に演じてみせる。
常に悩みが付き纏っているようなマリオンの眦(まなじり)を、お観逃しなきよう。
ブルーノ役のペーター・クルトはじめ、職場の同僚たちは皆、何らかの拘りを持って働いている。
否、生きている。
舞台となったライプツィヒは、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国:DDR)で、彼らは社会主義を経験した人々なのだ。
体制を懐かしむ訳ではないが、そこには40年もの営みがあった――登場人物の言葉が、胸を衝く。
トーマス・ステューバー監督はライプツィヒの出身で、ベルリンの壁崩壊時は7歳だったという。
壁崩壊から取り残された人々の心の拠り所を担ってか、ステューバー監督の撮る画は、その尽くが美しい。
朝靄に煙る田園風景、アウトバーンを臨むトラックヤード、深夜バスの暖かいヘッドライト、夜のスーパーの迷宮(ラビリンス)。
そして、汚臭が鼻につきそうな盛り場のトイレでさえ、美しい。
そんな美しい風景に寄り添う音楽が、また秀逸だ。
先述の「美しき青きドナウ」、大バッハの「G線上のアリア」、悲劇の狂人が歌い上げる「ランメルモールのルチア」。
クラシック、オペラの名曲が掛かったかと思えば、ジェフ・ニューマンの革新的な楽曲が、ソン・ハウスのブルースが、はたまたティンバー・ティンバー(TIMBER TIMBRE)の重厚なサウンドが掛かる。
BGMの使用楽曲の振り幅が、凄まじく広いのだ。
忘れないでほしい。『希望の灯り』は、二度裏切る。
否、裏切りは三度なのかもしれない。
観終わった私たちの胸に溢れるのは、そこはかとない希望なのだから――。
映画『希望の灯り』、東海地区での上映は、
ミリオン座(名古屋市中区錦 ※移転後なのでご注意を※)5月4日(土)〜
CINEX(岐阜県岐阜市)5月11日(土)〜
伊勢新富座(三重県伊勢市)6月1日(土)〜
となっている。
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