津軽三味線。
そう聞くと、じょんがら節を思い起こす人が多いだろう。
そんな「津軽よされ節」「津軽小原節」と並ぶ津軽三大民謡の一つ「津軽じょんがら(じょんから)節」だが、そもそもは三味線を伴奏として唄われる民謡を指すことを知る人は少ないだろう。
津軽民謡における分野の一つに過ぎなかった津軽三味線を、独奏という表現により音楽の一ジャンルにまで押し上げた高橋定蔵という人物が存在した。
その人こそ“津軽三味線の巨星”、初代 高橋竹山である。
明治43(1910)年6月、青森県東津軽郡中平内村(現:平内町)に生まれ、幼いころ患った麻疹で視力を弱らせ、後に失明する。
戦後“津軽民謡の神様”と謳われた成田雲竹(1889-1974)の興行に三味線の伴奏として付き従い、竹山と称する。
昭和39年の独立後は、津軽民謡を新たに編曲した三味線曲を独奏し、全国に竹山ブームを巻き起こした。
平成10(1998)年2月5日、喉頭ガンにより逝去。
『津軽のカマリ』は、そんな高橋竹山が遺した足跡を追い、津軽を中心とした日本の原風景に迫るドキュメンタリー映画だ。
「カマリ」とは、津軽弁で「臭い」「香り」のこと。
「それは、聴けば津軽の臭いが湧き出るような
そんな音を出したいものだ」
竹山が生前そんな風に語っていた音楽についての想いは、墓碑銘にも刻まれているそうだ。
「私はね、自分で自分の罪を恨んでいる三味線弾いているんですよ」
劇中で語られる言葉を裏付けるように、もしくは言葉とは裏腹に、作品では竹山を知る人々が口々に巨人について語る。
「門付け」
「いごく穴」
「ホイド」
かつて在り、今も残る言葉を聴く時、私たちは己の血に流れる業を知る。
「貧乏の為に覚えたんですよ」
音楽というものは、生活(生存するための活動)とは係わり合いの無い、遊びに属する。
だが、竹山にとっては糊口を凌ぐために身に就けた生業が、音楽なのだ。
それが如何なるものであったのか、スクリーンから耳目を離せなくなる。
そんな師を語る者の一人に、この映画のもう一人の主役がいる。
名跡を継いだ、二代目 高橋竹山である。
18才で内弟子入りした初代竹山に見込まれ、高橋竹与(ちくよ)の名で共に舞台に立ち、1979年で自立し、1997年に襲名を果たした女性三味線奏者だ。
しかし、津軽では彼女を認め、「高橋竹山」の名で呼ぶ者は少ないという。
劇中、二代目 竹山は、かつて師と共に訪れた沖縄、旅芸人時代の師が大津波に遭った三陸を巡り、久しぶりに津軽の地を踏み師の墓前で手を合わせる。
そして、襲名以来初となる青森市での単独コンサートに臨む。
『スケッチ・オブ・ミャーク』(2012年)で、沖縄県宮古島に伝わる歌を追い、古代の生活を思い起こさせた大西功一監督が、今作では極寒の地を記録する。
津軽半島の荒涼たる情景を忘れられずにいた大西監督は、2015年の春から約2年もの撮影期間を費やしたという。
「三味線も生きてるんだから。
生きてるものさ我々生きた人が弾くんだもの。
糸だって絹糸で、生きてるものだし。
皮は、毛皮使ってるし。
撥だって、亀の甲羅だもの。
みんな、生きたものの世話になってるんだ」
他者の心を奪うまでに昇華した遊びを、芸術と呼ぶ。
生活に最も根ざした芸術は、音楽であろう。
初代 竹山が大自然と語らっていたという二代目の言葉を聴く時、私たちもまた原初の日本を、地球を、垣間見ることになるのだ。
東海地方では、12月22日(土)より名演小劇場(名古屋市東区東桜)で公開が始まる。
また、公開に先駆けた12月17日(月)TOKUZO(名古屋市千種区今池)にて、二代目 高橋竹山による映画『津軽のカマリ』公開記念イベント『初代高橋竹山を語る。弾く。歌う。』が開催される。
先人達が脈々と伝承してきた心を、初代 高橋竹山が残した大いなる遺産を、そして今を生きる高橋竹山が受け継いだ技(業)の数々を、
その目で、耳で、肌で、感じてほしい――。
映画『津軽のカマリ』
企画・製作|大西功一映像事務所 製作・プロデューサー|大西功一
共同プロデューサー|明山遼 音楽|パスカル・プランティンガ
題字 | 間山陵行 タイトルCG | 嶋津穂高
出演 | 初代 高橋竹山、二代目 高橋竹山、高橋哲子、西川洋子、八戸竹清、
高橋栄山、須藤雲栄、高橋竹童 他
特別協賛|青森放送株式会社、宗教法人松緑神道大和山、タクミホーム株式会社、
田澤昭吾、竹勇会、藤田葉子、謡樂堂
配給|太秦 デザイン|なりたいつか
©2018 Koichi Onishi
2018|日本|104分|DCP|モノクロ・カラー|ドキュメンタリー
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