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2018年8月11日(土 祝)午前10時、開館前の名古屋シネマテーク(名古屋市千種区今池)を訪ねてみると、既に15名ほどの観客が列を作っていた。
『沖縄スパイ戦史』(監督:三上智恵、大矢英代/2018年/114分)の公開初日、大矢英代監督が舞台挨拶に登壇することもあって、名古屋シネマテークの観客席はあれよあれよと言う間に全てが埋まる大盛況となった。

『沖縄スパイ戦史』作品解説

第二次世界大戦末期、米軍による沖縄上陸戦では民間人を含む20万人あまりが犠牲となった。だが、沖縄戦には所謂「裏の戦争」があったことは知られていない。
沖縄本島北部では、まだ10代半ばの少年達が「護郷隊」という秘密部隊に配属され、牛島中将、長中将が自決した1945年6月23日以後もゲリラ戦を強いられていた。
波照間島に下った疎開命令は、マラリア蔓延る西表島が行き先だったため、住民は反対した。だが、ある一人の国民学校教諭の暗躍により、集団疎開は強行された。
旧日本軍が守ろうとしたのは、沖縄だったのか?それとも、日本国民だったのか?はたまた――?沖縄のスパイ虐殺を紐解くと、シンプルな答えが浮かび上がってきた。
大戦最末期、陸軍中野学校の出身者42人が秘密裏に沖縄に赴任した。その活動をつぶさに取材した、三上智恵、大矢英代の両監督。
生存者の証言を汲み取り明らかになった「事実」は、沖縄戦の全貌という過去の遺物ではない、戦慄を禁じえない「真実」であった――。

「満員ですね……感動してます。今日は、お忙しい中、しかもこんな猛暑の中、ご来場いただきまして本当にありがとうございます!」

映画の上映が終わり、鳴り止まない拍手の中で登場した大矢英代監督は、笑顔で壇上に立った。

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大矢英代監督 この映画を作る中で、三上(智恵)さんと私は、凄く心配していたんです。私と三上さんは琉球朝日放送で先輩、後輩だった間柄なんですが、二人とも原点は沖縄戦なんですね。三上さんは12歳の時に沖縄戦のことを知って、「もっと知りたい」と沖縄に入ったそうです。実は私が沖縄と出会ったのも、沖縄本島ではなく波照間島だったんです。アメリカ軍との戦闘ではなくて、自分たちの国の軍隊によって亡くなった方がいた……そのことに非常に大きな衝撃を受け、軍隊の暴力性というものを追うことで、沖縄戦を自分の問題意識の“核”にしたんですね。これが、報道の現場に入った切っ掛けでした。私は、2012年に琉球朝日放送に入社しました。ずっと報道記者として現場に立っていたんですけど、アメリカ軍基地の問題も、沖縄の貧困や教育格差の問題も、全ての根源に実は沖縄戦があるんです。沖縄戦を知らずして、沖縄の報道現場には立てないのが実情です。私も三上さんもずっと「沖縄戦」「沖縄戦」と言い続けている中で、この想い、問題意識は果たしてどこまで全国の方々に伝わるのか……非常に不安だったんです。だけど、こうして沢山の方に来ていただいて、本当に感謝しております。

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大矢監督 私は、去年の3月に琉球朝日放送を辞めて、フリーランスになりました。その時に三上さんから、「(TV)番組を作ろう」って話をもらったんです。ある全国ネットのテレビ局で企画してた特集の番組が出来なくなってしまったので、この映画を担当してくれたプロデューサーに「何か代りになるような企画は出せないか?」と相談が来たそうで。それが三上さんの所に話が来たので、沖縄戦の企画書を書いたそうなんですが、2ヶ月で取材も編集もしないといけないということで……これ、一人じゃほぼ無理なんですね。そういう中で、私に声掛けを頂いて、私は「やるしかない」と思いました。ところが、「何でも通る」と言われて書いた企画が通らなくて(笑)!ボツになってしまったんです。でも、取材も始めてしまっているし、私も三上さんも火が点いてしまったものですから……「何とかしよう!」ということで、今回こうして映画になったんです。10ヶ月という制作期間ではありましたが、この期間だけでやったことではないんですね。今回の映画は、三上さんと私で取材を分けてやっていたんです。三上さんは沖縄本島、私は八重山(諸島)とアメリカ、と手分けをして取材しました。

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大矢監督 実は私、学生時代は波照間島に1年住んでいたんです。今日観られて「何か、馴れ馴れしいな」と思ったかもしれませんが(場内笑)、実は皆、私の知り合いなんですね。「浦仲のお婆ちゃん」は、私を1年間泊めてくれたお婆ちゃんなんです。お婆ちゃんとの出会いは凄く面白くて……私が島に初めて行って誰も知り合いがいなかった頃、向こうから浦仲のおばあが歩いてきたんです。サトウキビ畑からの帰りなので、手に鎌を持って泥だらけ。なのに、もう片方の手には何故か鰹を持ってて(場内笑)。「畑から帰ってきてるのに、なんで鰹を持ってるの?」って話しかけたのが、出会いなんですよ。そこから話を聞いていったら、家族を亡くしたという話になって。私も吃驚して、どうしてお婆ちゃんにそんな悲しい出来事があったのか調べていく中で、戦争マラリアのことをどんどん知っていったんです。

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大矢監督 今回の映画を作るに当たって、私と三上さんは「どうして73年経って、沖縄戦なの?」ということを色んな方々に聞かれました。実は、答えは一つしかないんです。「もう2度と沖縄戦のような悲劇を繰り返さないため」なんです。今私たちが住んでいる社会を見てみると、「平和のため」と言って軍隊を海外に派遣したり……「平和のため」「戦争は嫌だ」、そういうものがどんどん為政者にとって都合の良い言葉にされていっているような気がしているんですね。それはきっと、私たちが本当の意味で、沖縄戦の教訓を学んでないからなんじゃないかと思ったんです。戦後73年間、沢山の証言や記録が残ってきていて、体験者の人たちも悲しい想い、辛い想いを一生懸命私たちに伝えてきてくれました。だけど、それは、ただ単に悲しい想いとして……「戦争で辛かったね」「大変だったね」「今が平和だから、これを大事にしたいね」っていうような話で終わらせてきたんじゃないかと思うんです。2018年というこれだけ危ない社会になってしまった今、もうそれだけでは不充分なんですよね。あの戦争で、どうして軍隊は住民を守らなかったのか、守れなかったのか。そして、住民たちはどんな風に戦争に巻き込まれ、銃を取って戦わされ、最終的に捨てられてしまったのか……そういう構造をきちんと見せていかないと、という思いから、私たちは映画を作りました。今回、沢山の資料を出したのも、体験者たちの話をただ単に「証言」として終わらせたくなかったからなんです。きちんと作戦や法律に則った話だということを分かってほしかったんですね。兵士個人が悪くて虐殺とかに繋がっていくのではなく、裏には軍機保護法という法律がちゃんとあったり、「戦友の死を顧みるな」という牛島司令官の訓示があったり……資料の裏付けは、大事なんです。

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大矢監督 今回の映画を、波照間島の皆に観せたんです。島には上映施設が全然ないので、手作りの三脚に物干し竿を架けて(場内笑)、「波照間公民館」という大きな横段幕のブルーシートの裏側が白いので、そこに投影して上映したんです(笑)。その時の様子は、三上さんが連載をしている「マガジン9」というウェブサイトの中で各地の上映の様子を動画に纏めて紹介しています。是非アクセスして、この映画に登場した人たちが、この映画をどんな風に観たのか、ご覧いただければと思っております。

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大矢監督 『沖縄スパイ戦史』、多くの方にお声掛けいただければ幸いです。本日は本当にお暑い中、わざわざお越しくださいまして、ありがとうございました。

登壇時よりも更に大きな拍手で大矢監督が見送られた後、ロビーではサイン会が行われた。
名古屋シネマテークの座席を埋め尽くした観客のほぼ全員が列を作ったにも拘らず、一人ひとりから丁寧に感想を聞く大矢監督の姿が印象的だった。

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劇場を後にすると、遥か彼方に入道雲を浮かべた名古屋の空からの情け容赦ない陽射しで、アスファルトは爛れるくらい熱かった。
監督からのメッセージを頭の中でなぞりつつ、酷暑の熱気にも似た戦争の狂乱に思いを馳せた。
戦後、年を経るにつけ、かえって狂乱は戦時中の熱を帯びつつある気がする……そんなことを思う、盂蘭盆の始まりであった――。

映画『沖縄スパイ戦史』公式サイト

マガジン9