津島神社(愛知県津島市神明町)は、全国で三千社以上といわれる津島社・天王社の総本社。
主祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)だが、神仏習合の時代には牛頭天王が信仰の対象で、現在でも津島神社は地元で「津島のお天王さま」と親しまれている。
津島市に夏を告げる『尾張津島天王祭』は「尾張津島4大祭」の筆頭格で、津島市最大のイベントといっても過言ではない。
旧暦の6月14・15日に行われていたが、現在では7月の第4週の土日に開催されている。
ドーム状に飾りつけられた500個余りの提灯を載せた5艘の「巻藁(まきわら)船」が、天王川の水面を悠々と滑りゆく……幽玄の宵祭。
一夜で御色直しした津島五ヶ村の船に、愛西市佐屋の「市江車」を加えた6艘の能人形を飾った「車楽(だんじり)船」が、楽を奏でながら漕ぎゆく……勇壮の朝祭。
『尾張津島天王祭』は、夜と朝とで全く違う2つの顔を見せる。
古来わが国には「怨霊信仰」が盛んで、政争に敗れ憤死した貴人、戦に敗れて非業の死を遂げた武人などの怨霊を鎮める儀式が行われてきた。
所謂、「御霊会」である。
怨霊として有名な神といえば、「北野天神」こと菅原道真。
京都の祇園祭も、八坂神社の主祭神「祇園天神」(=牛頭天王)を畏怖し、荒ぶる荒魂を鎮めるのが目的だそうだ。
夏の酷暑の無事を、また多くは夏に発生する疫病の調伏を祈願するために、京都では華麗に飾りつけた山や鉾が行列をなし、町内で曳く山車の壮麗さを競いあった。
御霊会の起源である牛頭天王の荒魂を鎮める祭礼の“津島神社版”が、今回紹介する『尾張津島天王祭』。
京都の祇園祭では山鉾巡行なら、津島の天王祭は船巡行が執り行われる。
これは、津島がかつて尾張と伊勢を結ぶ湊町だったからで、尾張津島天王祭は大阪の天満天神祭、厳島神社の管絃祭と並び、「日本三大川祭」の1つに数えられている。
織田信長が見物したとの記録も残っている500年以上の歴史を持つ津島天王祭は、2016(平成28)年12月1日「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されてから知名度も倍増した。
今年の尾張津島天王祭は台風12号の直撃に伴い、催事が大幅に縮小された。
宵祭最大の呼び物である巻藁船が出船しなかったため、祭自体が「中止された」と勘違いした観光客も多かったと聞く。
だが、社会の都合で、中止や延期が出来ないものもあるのだ。
6世紀もの長い伝統を受け継ぐ天王祭は、神事なのだから。
出船に花火、天王通りでの催し物と、宵祭が大幅縮小された平成30年の尾張津島天王祭であったが、朝祭は開催された。
ただし、船は津島五ヶ村から1車と市江車の2艘のみ、しかも飾りつけを廃した素車での出船となった。
寂しいが、安全を考慮すれば当然の措置といえよう。
人出も通年に比べれば少ないなどという表現では書き切れぬほどの寂しさであったが(世界遺産として登録されて初めての2017年の観光客が増大したので、特に)、見物客の少なさが奏功して、普段はまず撮影することが困難な写真を沢山撮れたのでレポートしたい。
(以上の写真は、宵祭は2014年、朝祭は2015年に撮影したもの)
朝祭で先頭を切る市江車には、稚児、囃子方(締太鼓・笛・太鼓)、乗り方衆のほか、鉾持ち衆(ほこもちしゅう)が乗船する。
「鉾持ち衆」とは津島神社に鉾を献上する役割を担う十人の若者で、布鉾は悪魔を降伏し災難を払う神剣であり、牛頭天王(建速須佐之男命)・蛇毒気神(だどくけしん。建速須佐之男命荒御魂を指すが、一説には八岐大蛇の顕現とも)・八王子(五男三女御子神)の十柱に各々献上するという。
白褌のみを身に着けた持ち衆は、布鉾を肩に担ぎ、順番に天王川へ飛び込む。
鉾持ち衆は天王川を泳ぎきると、御旅所(おたびしょ)で拝礼する。
そして、津島神社まで一気に突っ走る。
鉾持ち衆は、神輿還御の先払いとして道を清めるという役割もあるのだ。
布鉾から滴る水を身体の悪い部所に受けると、症状が快癒するという言い伝えもある。
祭を観るために神社を離れていた祭神が神輿還御により御旅所から戻ると、拝殿では子供たちによる雅楽が奉納された。
今年は乗船が叶わなかったため、「津島笛」を奏でる機会は激減したことだろう……神社での演奏は、ひと際力が入る。
お稚児さん、台風一過の熱い中……しかも、予定が目まぐるしく変わる中、一所懸命に荒御霊を鎮めてくれて、ありがとう。
また新たな夏を迎えることができるのは、皆様のおかげ。
『尾張津島天王祭』の期間中、津島神社では限定御朱印が配布された。
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